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第6話 三秒遅れの笑い声

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 19:31:35

 怜吾は、誰もいない編集室で笑い声を切り刻んでいた。

 午前二時十三分。

 窓の外では細い雨が降り始め、校舎の硝子を絶え間なく濡らしている。ほかの部屋はすべて消灯し、扉の下から漏れるモニターの青い光だけが廊下へ伸びていた。

 画面には、燈夜が人形の小指を折った時の映像が表示されている。

 映像を止め、音だけを再生する。

 陶器が砕ける乾いた音。

 燈夜の「針金じゃねえな」という声。

 それを茶化すように笑った美怜とイオ。

 三秒後。

「きゃはっ」

 幼い女児の笑い声が、二人の声を追いかけた。

 怜吾は再生を止めた。

 時刻表示を確認し、波形の開始位置へ印を付ける。

 美怜たちの笑いが始まったのは、一時間四分二十二秒と八フレーム。女児の声は、一時間四分二十五秒と八フレーム。

 ちょうど三秒。

 別の箇所を開く。

 イオが「金取るのかよ」と笑う。三秒後、同じ高さで幼い笑い声が響く。

 燈夜が視聴者のコメントを鼻で笑う。三秒後、女児も息を鼻から抜くように笑う。

 ちとせが人形の作り方について話し、美怜が「また怪談教室」と吹き出す。三秒後、女児の笑いにも、美怜特有の語尾を引く癖が混じった。

 怜吾は椅子へ深く座り直した。

 単なる反響ではない。

 反響なら部屋の広さとマイクの位置に応じて、遅れは一秒にも満たない。三秒もの間隔があれば、音は廊下の奥や別の部屋から返ってきたことになる。それでも毎回同じ長さで遅れるはずはなかった。

 何より、声が変化している。

 怜吾は配信開始から終了まで、笑いが起きた箇所をすべて抽出した。

 四十一箇所。

 女児の声は、そのすべてに入っていた。

 遅れは最短でも最長でも三秒。映像のフレーム単位までずれがない。五人が同時に笑えば女児の声も重なり、一人だけが短く笑えば、同じ長さで声を切る。途中で咳へ変わった笑いは、三秒後の女児も咳き込んでいた。

 声紋を比べると、話者は同じだと表示される。

 ただし推定年齢だけが定まらない。

 最初の声は五、六歳。途中から十代に近づき、終盤では成人女性の高さまで下がっている。それでも息を吸う量と舌の使い方は幼いままだった。

 五人の喉を順に借り、自分の声を作り直している。

 そんな考えが浮かび、怜吾はすぐに解析結果だけを見るよう目を伏せた。

 初めは、子どもが無邪気に笑うだけだった。

 それが美怜たちの笑い方を聞くたび、少しずつ似ていく。

 イオの甲高い息。

 燈夜が相手を嘲る時の短い鼻音。

 ちとせが冗談を言う前に喉の奥で鳴らす声。

 やがて五人の誰ともつかない笑い方へ変わり、同じ口の中に複数の舌があるような音になっていた。

 怜吾はマウスから手を離した。

 編集室が静かになる。

 ヘッドホンの外側から、きゃは、と声がした。

 振り返る。

 壁際には使っていない机と、黒い画面のモニターが並んでいる。人が隠れられる場所はない。

 音は一度きりだった。

 怜吾はヘッドホンを外し、机の上へ置いた。そこから三秒待つ。

 何も聞こえない。

 やがて彼は、波形の複製を保存してから、五人の連絡先へ短い文章を送った。

『笑い声が増えてる。午後、全員来て』

     *

 午後四時過ぎ、部室には焦げた臭いがまだ残っていた。

 窓を開けても、芳香剤を置いても、人形の指を炙った時の臭いだけが壁やカーテンへ染みついている。濡れた空気が入り込むたび、焦げた髪のような臭気が湿気を含んで濃くなった。

 白い市松人形は、長机の中央に寝かされている。

 折られた右小指は、黒い布の上へ別に置かれていた。陶器の内側から露出した芯は茶色く焦げ、細かな穴へ煤が入り込んでいる。

 燈夜の右手にも、簡素な金属副木が巻かれていた。

「ぶつけただけで大袈裟に固定された」

 誰も尋ねていないのに、燈夜はそう言った。

「病院行ったんだ」

 美怜が曲がった指を見る。

「ちとせがうるせえからな」

「診断は?」

 怜吾が尋ねる。

「骨に異常なし。腫れてるだけ」

「あれだけ曲がって骨に異常なし?」

「医者がそう言ったんだよ」

 燈夜は苛立った声で答え、右手をポケットへ隠した。固定具の下では、今も時折、爪が骨の内側を引っかいている。表情が一瞬だけ歪むたび、美怜は気づかないふりをした。

 イオはソファの端に座っている。口元へ手を当てる癖が抜けず、飲み物にも手をつけていない。ちとせは人形ではなく、部室の奥にある空の椅子を何度も見ていた。

「それで、増えてるって何が?」

 美怜が訊く。

 怜吾は部屋のスピーカーを使わず、持参した有線の小型機器へ音声を送った。無線接続はすべて切ってある。

「まず原音」

 昨夜の笑い声が流れる。

 五人の声が重なった三秒後、女児が笑う。

 イオの肩が小さく跳ねた。

「こんなの入ってた?」

「配信中はほかの音に埋もれてた」

「椅子の子?」

 ちとせの言葉に、燈夜が舌打ちする。

「誰かが音声飛ばしてんだろ。じじいじゃねえの?」

「森部さんが大学の部室へ?」

「あいつ、俺らが人形持ってるの知ってる。場所くらい調べられるだろ」

 怜吾は返事をせず、別の音を再生した。

 イオの笑い方を真似た声。

 燈夜の鼻音を真似た声。

 ちとせと美怜の息継ぎを繋ぎ合わせたような声。

 最後に、美怜が白目を剥き、人形へ向かって大きく笑った場面が流れる。

 美怜は配信映えを狙い、喉を反らして舌を出し、わざと潰れた笑い声を上げていた。

 三秒後。

 幼い喉が同じ笑い方をしようとした。

「あ、が……かっ、かは……」

 息が詰まり、声帯が擦れる。

 笑いというより、細い首を絞められた子どもが、それでも笑えと命じられているような声だった。

 音声の終わりには、濡れた舌が唇の外へ落ちるような音まで入っていた。

 美怜は無意識に自分の喉へ触れた。あの時は面白い顔を作ることしか考えていなかった。白目を剥き、舌を出し、息が苦しくなるまで笑った。

 画面の向こうで、同じ動きをしていたものがいる。

 目には映らず、声だけで。

 美怜の顔から笑みが消える。

「私、そんな声出してない」

「分かってる」

 怜吾は音を止めた。

「三秒遅れて、五人の笑い方を真似てる。後半ほど似てくる」

「音声生成じゃない?」

 イオが言う。

「その場で学習させて、無線で混ぜたとか」

「俺も最初はそう考えた」

「最初は?」

「声の下に別の音がある」

 怜吾は解析画面を表示した。

 赤、青、黄色の細い波形が重なっている。空調や外の話し声を除き、五人の声と女児の笑いを別々の層へ分けていた。

「笑いだけを消す」

 キーを押す。

 室内の環境音が流れる。

 衣擦れ。机へ触れる音。煙を吸い込む換気扇。

 その奥で、幼い唇が動いた。

「開けて」

 部室の全員が、人形を見た。

 白い口は閉じたままだった。

 次の箇所を再生する。

「暗い」

 声は少し遠く、土か厚い布を隔てて届いているように濁っていた。

 さらに別の箇所。

 五人が笑う直前、息を吸う音。

「まだ見てる?」

 美怜の腕へ鳥肌が立った。

 繭守邸で、障子が閉じた直後にコメント欄へ流れた言葉。

 森部の前で人形を踏んだ時、誰も入力したと名乗らなかった言葉。

 それが今度は、笑い声の下から聞こえている。

 怜吾は三つの囁きを順番に並べた。

「開けて。暗い。まだ見てる?」

 一つの文章として聞くと、部室の温度が下がったように感じられた。

「どこを開けろって言ってるんだろ」

 イオが口元を覆う。

「仏壇の裏の包みは、もう開けたよね」

「それでも暗い場所にいるなら、包みの中じゃない」

 ちとせは人形の腹部を見た。

「もっと内側」

「怖がらせる言い方すんな」

 燈夜が吐き捨てる。

「声が本当にこの人形から出てるって決まったわけじゃねえ」

「だから発信源を探す」

 怜吾は三つの音を別の保存領域へ移した。画面上から消したはずの元波形に、赤い線が一本だけ残る。

 誰も笑っていない箇所だった。

 再生すると、女児が三秒間、息だけで笑っていた。

「誰かが遊んでる」

 怜吾が言った。

 冷静な声だったが、黒い爪の指先は机を一定の速さで叩いている。

「この部屋へ無線で音を飛ばし、配信のマイクへ拾わせている。笑い声の変化はリアルタイムの加工。囁きは事前に録音した素材かもしれない」

「どうやって三秒ぴったりに?」

「映像を見ながらならできる。配信には遅延があるが、部屋のどこかに別のカメラがあれば関係ない」

 五人の視線が、自然に室内へ散った。

 使っていない機材。天井の換気口。壁のコンセント。映画祭のポスター。奥の空の椅子。

「探す」

 怜吾は立ち上がった。

     *

 部室にある電子機器の電源を、すべて落とした。

 ノートパソコン、スピーカー、無線ルーター、充電中のカメラ。五人のスマートフォンも機内モードへ切り替え、金属製の機材箱へまとめて入れた。

 怜吾は受信機を持ち、部屋の隅から周波数を調べていく。

 一般的な無線マイクの帯域。近距離通信用の周波数。古い盗聴器が使う範囲。数値を変えるたび、受信機から砂を擦るようなノイズが流れた。

 一度だけ、部室の入口付近で短い信号を拾った。

 高い電子音が鳴り、すぐに消える。

 怜吾が扉を開けると、廊下には誰もいなかった。雨に濡れた窓と、非常灯に照らされた階段が見えるだけだった。

「誰か走らなかった?」

 イオが尋ねる。

「足音はしてない」

「でも今、影が曲がったよ」

 全員で廊下を確認しても、動くものはなかった。

 換気口の蓋を外す。埃と枯れた虫しかない。

 コンセントの化粧板を外す。古い配線が壁の中へ続いているだけだった。

 ポスターを剥がし、ソファの裏へ手を入れ、天井板まで一枚ずつ持ち上げる。

 長机の裏側には、四角く埃のない箇所があった。

 指二本分ほどの大きさ。周囲には黒い粘着剤が残り、細い結束帯の切れ端が一つ落ちている。最近まで小型の機器が貼られていたように見えた。

「これ、前からあった?」

 怜吾が尋ねる。

 誰も答えられなかった。

 部室では機材を頻繁に貼りつけ、配線を机へ固定する。自分たちが使った跡かもしれない。だが粘着剤へ付いた指紋のような窪みは新しく、埃も積もっていなかった。

 怜吾は結束帯を袋へ入れた。

「人が仕掛けた跡じゃん」

 美怜が言う。

「可能性はある。でも機器がない以上、あの音を送った証拠にはならない」

「外したやつが、まだ近くにいるかもってこと?」

 イオの視線が扉へ向かう。

 その時、廊下側から爪で一度だけ扉を掻く音がした。

 開けても、やはり誰もいなかった。

 燈夜も片手で棚を動かした。苛立ちを物へぶつけるたび、固定具の内側で引っかく音がして、その動きが止まる。

「何もねえじゃん」

「まだ半分」

「そもそも、俺らの中に仕掛けたやつがいるんじゃね?」

 燈夜が四人を見回した。

「怜吾なら音なんか好きに作れるだろ」

「俺が作ったなら、わざわざ探すふりをする意味がない」

「意味ならあるじゃん。チャンネル独り占めとか」

「最初の登録すら自分でしてない代表が?」

 怜吾の言葉に、燈夜の顔が強張った。

「何だと」

「今は機材を探せ」

 美怜が二人の間へ入り込む。

「仲間割れは配信中だけにして。数字にならないところで喧嘩しないでよ」

 笑って言ったが、部室の空気は戻らなかった。

 怜吾は最後に、空の椅子を調べた。

 座面の裏、脚の継ぎ目、背もたれ。小型マイクも発信機もない。茶色い布地を押すと、昨夜の映像と同じようにゆっくり沈み、時間をかけて戻った。

 受信機は無音だった。

 室内から怪しい信号は出ていない。

「人形は?」

 ちとせが言った。

 怜吾が顔を上げる。

「部屋じゃなくて、その中に入ってるんじゃない?」

 長机の上で、人形は仰向けになっている。

 折れた小指。亀裂の入った顔。伸びた黒髪。膨らんだ腹部。

「昨日より、お腹大きくない?」

 イオが囁く。

 着物の帯は、腹の中央だけ不自然に持ち上がっていた。内側から拳ほどのものが押しているように、布が丸く張っている。

 怜吾は人形の周囲を受信機でなぞった。

 反応はない。

「電波は出てない」

「中に録音機を入れたなら、電波いらないでしょ」

 ちとせは人形から目を逸らさない。

 怜吾が接触型マイクを取り出した。机や壁の内部音を拾うための、小さな円盤状の機器だった。

「切り開く前に音を拾う」

「また記録かよ」

「燈夜は触るな」

 黒い手袋をはめ直し、人形の胸へマイクを当てる。

 無音。

 肩へ移す。

 かすかな軋み。髪が着物を擦る音。

 腹部へ近づけた。

 解析画面の波形が、大きく跳ねた。

 全員の呼吸が止まる。

 人形の腹から、低い振動がマイクを通して伝わってきた。

 ごり。

 硬い何かが内側で擦れる。

 その次に、誰かが息を吸った。

 音は低く、部屋にいる五人の声ではないように聞こえた。

 けれど最初の一音が出た瞬間、全員が怜吾を見た。

 怜吾本人の声だった。

「そのカメラ、ずっとこっち向いてるよ」

 抑揚も、息の混じり方も、語尾の低さも同じだった。

 怜吾は口を閉じている。

 声だけが、人形の腹の奥から流れた。

「俺じゃない」

 怜吾がそう言う。

 三秒後。

 人形の腹から、同じ声が返った。

「俺じゃない」

 美怜の背後で、電子音が鳴った。

 短い起動音。

 全員が振り返る。

 部室の後方に置かれたカメラ。電源を落とし、記録媒体も抜いたはずの一台だった。

 電池も外してある。

 怜吾の手元にある机の上へ、黒い予備電池が並んでいた。個数は合っている。背後のカメラへ残っているものはない。

 黒いレンズが、五人と人形を背後から捉えている。

 その下で、消えていた録画ランプが赤く点灯した。

 ランプの明滅は、三秒に一度だった。

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