ログイン怜吾は、誰もいない編集室で笑い声を切り刻んでいた。
午前二時十三分。
窓の外では細い雨が降り始め、校舎の硝子を絶え間なく濡らしている。ほかの部屋はすべて消灯し、扉の下から漏れるモニターの青い光だけが廊下へ伸びていた。
画面には、燈夜が人形の小指を折った時の映像が表示されている。
映像を止め、音だけを再生する。
陶器が砕ける乾いた音。
燈夜の「針金じゃねえな」という声。
それを茶化すように笑った美怜とイオ。
三秒後。
「きゃはっ」
幼い女児の笑い声が、二人の声を追いかけた。
怜吾は再生を止めた。
時刻表示を確認し、波形の開始位置へ印を付ける。
美怜たちの笑いが始まったのは、一時間四分二十二秒と八フレーム。女児の声は、一時間四分二十五秒と八フレーム。
ちょうど三秒。
別の箇所を開く。
イオが「金取るのかよ」と笑う。三秒後、同じ高さで幼い笑い声が響く。
燈夜が視聴者のコメントを鼻で笑う。三秒後、女児も息を鼻から抜くように笑う。
ちとせが人形の作り方について話し、美怜が「また怪談教室」と吹き出す。三秒後、女児の笑いにも、美怜特有の語尾を引く癖が混じった。
怜吾は椅子へ深く座り直した。
単なる反響ではない。
反響なら部屋の広さとマイクの位置に応じて、遅れは一秒にも満たない。三秒もの間隔があれば、音は廊下の奥や別の部屋から返ってきたことになる。それでも毎回同じ長さで遅れるはずはなかった。
何より、声が変化している。
怜吾は配信開始から終了まで、笑いが起きた箇所をすべて抽出した。
四十一箇所。
女児の声は、そのすべてに入っていた。
遅れは最短でも最長でも三秒。映像のフレーム単位までずれがない。五人が同時に笑えば女児の声も重なり、一人だけが短く笑えば、同じ長さで声を切る。途中で咳へ変わった笑いは、三秒後の女児も咳き込んでいた。
声紋を比べると、話者は同じだと表示される。
ただし推定年齢だけが定まらない。
最初の声は五、六歳。途中から十代に近づき、終盤では成人女性の高さまで下がっている。それでも息を吸う量と舌の使い方は幼いままだった。
五人の喉を順に借り、自分の声を作り直している。
そんな考えが浮かび、怜吾はすぐに解析結果だけを見るよう目を伏せた。
初めは、子どもが無邪気に笑うだけだった。
それが美怜たちの笑い方を聞くたび、少しずつ似ていく。
イオの甲高い息。
燈夜が相手を嘲る時の短い鼻音。
ちとせが冗談を言う前に喉の奥で鳴らす声。
やがて五人の誰ともつかない笑い方へ変わり、同じ口の中に複数の舌があるような音になっていた。
怜吾はマウスから手を離した。
編集室が静かになる。
ヘッドホンの外側から、きゃは、と声がした。
振り返る。
壁際には使っていない机と、黒い画面のモニターが並んでいる。人が隠れられる場所はない。
音は一度きりだった。
怜吾はヘッドホンを外し、机の上へ置いた。そこから三秒待つ。
何も聞こえない。
やがて彼は、波形の複製を保存してから、五人の連絡先へ短い文章を送った。
『笑い声が増えてる。午後、全員来て』
*
午後四時過ぎ、部室には焦げた臭いがまだ残っていた。
窓を開けても、芳香剤を置いても、人形の指を炙った時の臭いだけが壁やカーテンへ染みついている。濡れた空気が入り込むたび、焦げた髪のような臭気が湿気を含んで濃くなった。
白い市松人形は、長机の中央に寝かされている。
折られた右小指は、黒い布の上へ別に置かれていた。陶器の内側から露出した芯は茶色く焦げ、細かな穴へ煤が入り込んでいる。
燈夜の右手にも、簡素な金属副木が巻かれていた。
「ぶつけただけで大袈裟に固定された」
誰も尋ねていないのに、燈夜はそう言った。
「病院行ったんだ」
美怜が曲がった指を見る。
「ちとせがうるせえからな」
「診断は?」
怜吾が尋ねる。
「骨に異常なし。腫れてるだけ」
「あれだけ曲がって骨に異常なし?」
「医者がそう言ったんだよ」
燈夜は苛立った声で答え、右手をポケットへ隠した。固定具の下では、今も時折、爪が骨の内側を引っかいている。表情が一瞬だけ歪むたび、美怜は気づかないふりをした。
イオはソファの端に座っている。口元へ手を当てる癖が抜けず、飲み物にも手をつけていない。ちとせは人形ではなく、部室の奥にある空の椅子を何度も見ていた。
「それで、増えてるって何が?」
美怜が訊く。
怜吾は部屋のスピーカーを使わず、持参した有線の小型機器へ音声を送った。無線接続はすべて切ってある。
「まず原音」
昨夜の笑い声が流れる。
五人の声が重なった三秒後、女児が笑う。
イオの肩が小さく跳ねた。
「こんなの入ってた?」
「配信中はほかの音に埋もれてた」
「椅子の子?」
ちとせの言葉に、燈夜が舌打ちする。
「誰かが音声飛ばしてんだろ。じじいじゃねえの?」
「森部さんが大学の部室へ?」
「あいつ、俺らが人形持ってるの知ってる。場所くらい調べられるだろ」
怜吾は返事をせず、別の音を再生した。
イオの笑い方を真似た声。
燈夜の鼻音を真似た声。
ちとせと美怜の息継ぎを繋ぎ合わせたような声。
最後に、美怜が白目を剥き、人形へ向かって大きく笑った場面が流れる。
美怜は配信映えを狙い、喉を反らして舌を出し、わざと潰れた笑い声を上げていた。
三秒後。
幼い喉が同じ笑い方をしようとした。
「あ、が……かっ、かは……」
息が詰まり、声帯が擦れる。
笑いというより、細い首を絞められた子どもが、それでも笑えと命じられているような声だった。
音声の終わりには、濡れた舌が唇の外へ落ちるような音まで入っていた。
美怜は無意識に自分の喉へ触れた。あの時は面白い顔を作ることしか考えていなかった。白目を剥き、舌を出し、息が苦しくなるまで笑った。
画面の向こうで、同じ動きをしていたものがいる。
目には映らず、声だけで。
美怜の顔から笑みが消える。
「私、そんな声出してない」
「分かってる」
怜吾は音を止めた。
「三秒遅れて、五人の笑い方を真似てる。後半ほど似てくる」
「音声生成じゃない?」
イオが言う。
「その場で学習させて、無線で混ぜたとか」
「俺も最初はそう考えた」
「最初は?」
「声の下に別の音がある」
怜吾は解析画面を表示した。
赤、青、黄色の細い波形が重なっている。空調や外の話し声を除き、五人の声と女児の笑いを別々の層へ分けていた。
「笑いだけを消す」
キーを押す。
室内の環境音が流れる。
衣擦れ。机へ触れる音。煙を吸い込む換気扇。
その奥で、幼い唇が動いた。
「開けて」
部室の全員が、人形を見た。
白い口は閉じたままだった。
次の箇所を再生する。
「暗い」
声は少し遠く、土か厚い布を隔てて届いているように濁っていた。
さらに別の箇所。
五人が笑う直前、息を吸う音。
「まだ見てる?」
美怜の腕へ鳥肌が立った。
繭守邸で、障子が閉じた直後にコメント欄へ流れた言葉。
森部の前で人形を踏んだ時、誰も入力したと名乗らなかった言葉。
それが今度は、笑い声の下から聞こえている。
怜吾は三つの囁きを順番に並べた。
「開けて。暗い。まだ見てる?」
一つの文章として聞くと、部室の温度が下がったように感じられた。
「どこを開けろって言ってるんだろ」
イオが口元を覆う。
「仏壇の裏の包みは、もう開けたよね」
「それでも暗い場所にいるなら、包みの中じゃない」
ちとせは人形の腹部を見た。
「もっと内側」
「怖がらせる言い方すんな」
燈夜が吐き捨てる。
「声が本当にこの人形から出てるって決まったわけじゃねえ」
「だから発信源を探す」
怜吾は三つの音を別の保存領域へ移した。画面上から消したはずの元波形に、赤い線が一本だけ残る。
誰も笑っていない箇所だった。
再生すると、女児が三秒間、息だけで笑っていた。
「誰かが遊んでる」
怜吾が言った。
冷静な声だったが、黒い爪の指先は机を一定の速さで叩いている。
「この部屋へ無線で音を飛ばし、配信のマイクへ拾わせている。笑い声の変化はリアルタイムの加工。囁きは事前に録音した素材かもしれない」
「どうやって三秒ぴったりに?」
「映像を見ながらならできる。配信には遅延があるが、部屋のどこかに別のカメラがあれば関係ない」
五人の視線が、自然に室内へ散った。
使っていない機材。天井の換気口。壁のコンセント。映画祭のポスター。奥の空の椅子。
「探す」
怜吾は立ち上がった。
*
部室にある電子機器の電源を、すべて落とした。
ノートパソコン、スピーカー、無線ルーター、充電中のカメラ。五人のスマートフォンも機内モードへ切り替え、金属製の機材箱へまとめて入れた。
怜吾は受信機を持ち、部屋の隅から周波数を調べていく。
一般的な無線マイクの帯域。近距離通信用の周波数。古い盗聴器が使う範囲。数値を変えるたび、受信機から砂を擦るようなノイズが流れた。
一度だけ、部室の入口付近で短い信号を拾った。
高い電子音が鳴り、すぐに消える。
怜吾が扉を開けると、廊下には誰もいなかった。雨に濡れた窓と、非常灯に照らされた階段が見えるだけだった。
「誰か走らなかった?」
イオが尋ねる。
「足音はしてない」
「でも今、影が曲がったよ」
全員で廊下を確認しても、動くものはなかった。
換気口の蓋を外す。埃と枯れた虫しかない。
コンセントの化粧板を外す。古い配線が壁の中へ続いているだけだった。
ポスターを剥がし、ソファの裏へ手を入れ、天井板まで一枚ずつ持ち上げる。
長机の裏側には、四角く埃のない箇所があった。
指二本分ほどの大きさ。周囲には黒い粘着剤が残り、細い結束帯の切れ端が一つ落ちている。最近まで小型の機器が貼られていたように見えた。
「これ、前からあった?」
怜吾が尋ねる。
誰も答えられなかった。
部室では機材を頻繁に貼りつけ、配線を机へ固定する。自分たちが使った跡かもしれない。だが粘着剤へ付いた指紋のような窪みは新しく、埃も積もっていなかった。
怜吾は結束帯を袋へ入れた。
「人が仕掛けた跡じゃん」
美怜が言う。
「可能性はある。でも機器がない以上、あの音を送った証拠にはならない」
「外したやつが、まだ近くにいるかもってこと?」
イオの視線が扉へ向かう。
その時、廊下側から爪で一度だけ扉を掻く音がした。
開けても、やはり誰もいなかった。
燈夜も片手で棚を動かした。苛立ちを物へぶつけるたび、固定具の内側で引っかく音がして、その動きが止まる。
「何もねえじゃん」
「まだ半分」
「そもそも、俺らの中に仕掛けたやつがいるんじゃね?」
燈夜が四人を見回した。
「怜吾なら音なんか好きに作れるだろ」
「俺が作ったなら、わざわざ探すふりをする意味がない」
「意味ならあるじゃん。チャンネル独り占めとか」
「最初の登録すら自分でしてない代表が?」
怜吾の言葉に、燈夜の顔が強張った。
「何だと」
「今は機材を探せ」
美怜が二人の間へ入り込む。
「仲間割れは配信中だけにして。数字にならないところで喧嘩しないでよ」
笑って言ったが、部室の空気は戻らなかった。
怜吾は最後に、空の椅子を調べた。
座面の裏、脚の継ぎ目、背もたれ。小型マイクも発信機もない。茶色い布地を押すと、昨夜の映像と同じようにゆっくり沈み、時間をかけて戻った。
受信機は無音だった。
室内から怪しい信号は出ていない。
「人形は?」
ちとせが言った。
怜吾が顔を上げる。
「部屋じゃなくて、その中に入ってるんじゃない?」
長机の上で、人形は仰向けになっている。
折れた小指。亀裂の入った顔。伸びた黒髪。膨らんだ腹部。
「昨日より、お腹大きくない?」
イオが囁く。
着物の帯は、腹の中央だけ不自然に持ち上がっていた。内側から拳ほどのものが押しているように、布が丸く張っている。
怜吾は人形の周囲を受信機でなぞった。
反応はない。
「電波は出てない」
「中に録音機を入れたなら、電波いらないでしょ」
ちとせは人形から目を逸らさない。
怜吾が接触型マイクを取り出した。机や壁の内部音を拾うための、小さな円盤状の機器だった。
「切り開く前に音を拾う」
「また記録かよ」
「燈夜は触るな」
黒い手袋をはめ直し、人形の胸へマイクを当てる。
無音。
肩へ移す。
かすかな軋み。髪が着物を擦る音。
腹部へ近づけた。
解析画面の波形が、大きく跳ねた。
全員の呼吸が止まる。
人形の腹から、低い振動がマイクを通して伝わってきた。
ごり。
硬い何かが内側で擦れる。
その次に、誰かが息を吸った。
音は低く、部屋にいる五人の声ではないように聞こえた。
けれど最初の一音が出た瞬間、全員が怜吾を見た。
怜吾本人の声だった。
「そのカメラ、ずっとこっち向いてるよ」
抑揚も、息の混じり方も、語尾の低さも同じだった。
怜吾は口を閉じている。
声だけが、人形の腹の奥から流れた。
「俺じゃない」
怜吾がそう言う。
三秒後。
人形の腹から、同じ声が返った。
「俺じゃない」
美怜の背後で、電子音が鳴った。
短い起動音。
全員が振り返る。
部室の後方に置かれたカメラ。電源を落とし、記録媒体も抜いたはずの一台だった。
電池も外してある。
怜吾の手元にある机の上へ、黒い予備電池が並んでいた。個数は合っている。背後のカメラへ残っているものはない。
黒いレンズが、五人と人形を背後から捉えている。
その下で、消えていた録画ランプが赤く点灯した。
ランプの明滅は、三秒に一度だった。
夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに