เข้าสู่ระบบ怜吾は、誰もいない編集室で笑い声を切り刻んでいた。
午前二時十三分。
窓の外では細い雨が降り始め、校舎の硝子を絶え間なく濡らしている。ほかの部屋はすべて消灯し、扉の下から漏れるモニターの青い光だけが廊下へ伸びていた。
画面には、燈夜が人形の小指を折った時の映像が表示されている。
映像を止め、音だけを再生する。
陶器が砕ける乾いた音。
燈夜の「針金じゃねえな」という声。
それを茶化すように笑った美怜とイオ。
三秒後。
「きゃはっ」
幼い女児の笑い声が、二人の声を追いかけた。
怜吾は再生を止めた。
時刻表示を確認し、波形の開始位置へ印を付ける。
美怜たちの笑いが始まったのは、一時間四分二十二秒と八フレーム。女児の声は、一時間四分二十五秒と八フレーム。
ちょうど三秒。
別の箇所を開く。
イオが「金取るのかよ」と笑う。三秒後、同じ高さで幼い笑い声が響く。
燈夜が視聴者のコメントを鼻で笑う。三秒後、女児も息を鼻から抜くように笑う。
ちとせが人形の作り方について話し、美怜が「また怪談教室」と吹き出す。三秒後、女児の笑いにも、美怜特有の語尾を引く癖が混じった。
怜吾は椅子へ深く座り直した。
単なる反響ではない。
反響なら部屋の広さとマイクの位置に応じて、遅れは一秒にも満たない。三秒もの間隔があれば、音は廊下の奥や別の部屋から返ってきたことになる。それでも毎回同じ長さで遅れるはずはなかった。
何より、声が変化している。
怜吾は配信開始から終了まで、笑いが起きた箇所をすべて抽出した。
四十一箇所。
女児の声は、そのすべてに入っていた。
遅れは最短でも最長でも三秒。映像のフレーム単位までずれがない。五人が同時に笑えば女児の声も重なり、一人だけが短く笑えば、同じ長さで声を切る。途中で咳へ変わった笑いは、三秒後の女児も咳き込んでいた。
声紋を比べると、話者は同じだと表示される。
ただし推定年齢だけが定まらない。
最初の声は五、六歳。途中から十代に近づき、終盤では成人女性の高さまで下がっている。それでも息を吸う量と舌の使い方は幼いままだった。
五人の喉を順に借り、自分の声を作り直している。
そんな考えが浮かび、怜吾はすぐに解析結果だけを見るよう目を伏せた。
初めは、子どもが無邪気に笑うだけだった。
それが美怜たちの笑い方を聞くたび、少しずつ似ていく。
イオの甲高い息。
燈夜が相手を嘲る時の短い鼻音。
ちとせが冗談を言う前に喉の奥で鳴らす声。
やがて五人の誰ともつかない笑い方へ変わり、同じ口の中に複数の舌があるような音になっていた。
怜吾はマウスから手を離した。
編集室が静かになる。
ヘッドホンの外側から、きゃは、と声がした。
振り返る。
壁際には使っていない机と、黒い画面のモニターが並んでいる。人が隠れられる場所はない。
音は一度きりだった。
怜吾はヘッドホンを外し、机の上へ置いた。そこから三秒待つ。
何も聞こえない。
やがて彼は、波形の複製を保存してから、五人の連絡先へ短い文章を送った。
『笑い声が増えてる。午後、全員来て』
*
午後四時過ぎ、部室には焦げた臭いがまだ残っていた。
窓を開けても、芳香剤を置いても、人形の指を炙った時の臭いだけが壁やカーテンへ染みついている。濡れた空気が入り込むたび、焦げた髪のような臭気が湿気を含んで濃くなった。
白い市松人形は、長机の中央に寝かされている。
折られた右小指は、黒い布の上へ別に置かれていた。陶器の内側から露出した芯は茶色く焦げ、細かな穴へ煤が入り込んでいる。
燈夜の右手にも、簡素な金属副木が巻かれていた。
「ぶつけただけで大袈裟に固定された」
誰も尋ねていないのに、燈夜はそう言った。
「病院行ったんだ」
美怜が曲がった指を見る。
「ちとせがうるせえからな」
「診断は?」
怜吾が尋ねる。
「骨に異常なし。腫れてるだけ」
「あれだけ曲がって骨に異常なし?」
「医者がそう言ったんだよ」
燈夜は苛立った声で答え、右手をポケットへ隠した。固定具の下では、今も時折、爪が骨の内側を引っかいている。表情が一瞬だけ歪むたび、美怜は気づかないふりをした。
イオはソファの端に座っている。口元へ手を当てる癖が抜けず、飲み物にも手をつけていない。ちとせは人形ではなく、部室の奥にある空の椅子を何度も見ていた。
「それで、増えてるって何が?」
美怜が訊く。
怜吾は部屋のスピーカーを使わず、持参した有線の小型機器へ音声を送った。無線接続はすべて切ってある。
「まず原音」
昨夜の笑い声が流れる。
五人の声が重なった三秒後、女児が笑う。
イオの肩が小さく跳ねた。
「こんなの入ってた?」
「配信中はほかの音に埋もれてた」
「椅子の子?」
ちとせの言葉に、燈夜が舌打ちする。
「誰かが音声飛ばしてんだろ。じじいじゃねえの?」
「森部さんが大学の部室へ?」
「あいつ、俺らが人形持ってるの知ってる。場所くらい調べられるだろ」
怜吾は返事をせず、別の音を再生した。
イオの笑い方を真似た声。
燈夜の鼻音を真似た声。
ちとせと美怜の息継ぎを繋ぎ合わせたような声。
最後に、美怜が白目を剥き、人形へ向かって大きく笑った場面が流れる。
美怜は配信映えを狙い、喉を反らして舌を出し、わざと潰れた笑い声を上げていた。
三秒後。
幼い喉が同じ笑い方をしようとした。
「あ、が……かっ、かは……」
息が詰まり、声帯が擦れる。
笑いというより、細い首を絞められた子どもが、それでも笑えと命じられているような声だった。
音声の終わりには、濡れた舌が唇の外へ落ちるような音まで入っていた。
美怜は無意識に自分の喉へ触れた。あの時は面白い顔を作ることしか考えていなかった。白目を剥き、舌を出し、息が苦しくなるまで笑った。
画面の向こうで、同じ動きをしていたものがいる。
目には映らず、声だけで。
美怜の顔から笑みが消える。
「私、そんな声出してない」
「分かってる」
怜吾は音を止めた。
「三秒遅れて、五人の笑い方を真似てる。後半ほど似てくる」
「音声生成じゃない?」
イオが言う。
「その場で学習させて、無線で混ぜたとか」
「俺も最初はそう考えた」
「最初は?」
「声の下に別の音がある」
怜吾は解析画面を表示した。
赤、青、黄色の細い波形が重なっている。空調や外の話し声を除き、五人の声と女児の笑いを別々の層へ分けていた。
「笑いだけを消す」
キーを押す。
室内の環境音が流れる。
衣擦れ。机へ触れる音。煙を吸い込む換気扇。
その奥で、幼い唇が動いた。
「開けて」
部室の全員が、人形を見た。
白い口は閉じたままだった。
次の箇所を再生する。
「暗い」
声は少し遠く、土か厚い布を隔てて届いているように濁っていた。
さらに別の箇所。
五人が笑う直前、息を吸う音。
「まだ見てる?」
美怜の腕へ鳥肌が立った。
繭守邸で、障子が閉じた直後にコメント欄へ流れた言葉。
森部の前で人形を踏んだ時、誰も入力したと名乗らなかった言葉。
それが今度は、笑い声の下から聞こえている。
怜吾は三つの囁きを順番に並べた。
「開けて。暗い。まだ見てる?」
一つの文章として聞くと、部室の温度が下がったように感じられた。
「どこを開けろって言ってるんだろ」
イオが口元を覆う。
「仏壇の裏の包みは、もう開けたよね」
「それでも暗い場所にいるなら、包みの中じゃない」
ちとせは人形の腹部を見た。
「もっと内側」
「怖がらせる言い方すんな」
燈夜が吐き捨てる。
「声が本当にこの人形から出てるって決まったわけじゃねえ」
「だから発信源を探す」
怜吾は三つの音を別の保存領域へ移した。画面上から消したはずの元波形に、赤い線が一本だけ残る。
誰も笑っていない箇所だった。
再生すると、女児が三秒間、息だけで笑っていた。
「誰かが遊んでる」
怜吾が言った。
冷静な声だったが、黒い爪の指先は机を一定の速さで叩いている。
「この部屋へ無線で音を飛ばし、配信のマイクへ拾わせている。笑い声の変化はリアルタイムの加工。囁きは事前に録音した素材かもしれない」
「どうやって三秒ぴったりに?」
「映像を見ながらならできる。配信には遅延があるが、部屋のどこかに別のカメラがあれば関係ない」
五人の視線が、自然に室内へ散った。
使っていない機材。天井の換気口。壁のコンセント。映画祭のポスター。奥の空の椅子。
「探す」
怜吾は立ち上がった。
*
部室にある電子機器の電源を、すべて落とした。
ノートパソコン、スピーカー、無線ルーター、充電中のカメラ。五人のスマートフォンも機内モードへ切り替え、金属製の機材箱へまとめて入れた。
怜吾は受信機を持ち、部屋の隅から周波数を調べていく。
一般的な無線マイクの帯域。近距離通信用の周波数。古い盗聴器が使う範囲。数値を変えるたび、受信機から砂を擦るようなノイズが流れた。
一度だけ、部室の入口付近で短い信号を拾った。
高い電子音が鳴り、すぐに消える。
怜吾が扉を開けると、廊下には誰もいなかった。雨に濡れた窓と、非常灯に照らされた階段が見えるだけだった。
「誰か走らなかった?」
イオが尋ねる。
「足音はしてない」
「でも今、影が曲がったよ」
全員で廊下を確認しても、動くものはなかった。
換気口の蓋を外す。埃と枯れた虫しかない。
コンセントの化粧板を外す。古い配線が壁の中へ続いているだけだった。
ポスターを剥がし、ソファの裏へ手を入れ、天井板まで一枚ずつ持ち上げる。
長机の裏側には、四角く埃のない箇所があった。
指二本分ほどの大きさ。周囲には黒い粘着剤が残り、細い結束帯の切れ端が一つ落ちている。最近まで小型の機器が貼られていたように見えた。
「これ、前からあった?」
怜吾が尋ねる。
誰も答えられなかった。
部室では機材を頻繁に貼りつけ、配線を机へ固定する。自分たちが使った跡かもしれない。だが粘着剤へ付いた指紋のような窪みは新しく、埃も積もっていなかった。
怜吾は結束帯を袋へ入れた。
「人が仕掛けた跡じゃん」
美怜が言う。
「可能性はある。でも機器がない以上、あの音を送った証拠にはならない」
「外したやつが、まだ近くにいるかもってこと?」
イオの視線が扉へ向かう。
その時、廊下側から爪で一度だけ扉を掻く音がした。
開けても、やはり誰もいなかった。
燈夜も片手で棚を動かした。苛立ちを物へぶつけるたび、固定具の内側で引っかく音がして、その動きが止まる。
「何もねえじゃん」
「まだ半分」
「そもそも、俺らの中に仕掛けたやつがいるんじゃね?」
燈夜が四人を見回した。
「怜吾なら音なんか好きに作れるだろ」
「俺が作ったなら、わざわざ探すふりをする意味がない」
「意味ならあるじゃん。チャンネル独り占めとか」
「最初の登録すら自分でしてない代表が?」
怜吾の言葉に、燈夜の顔が強張った。
「何だと」
「今は機材を探せ」
美怜が二人の間へ入り込む。
「仲間割れは配信中だけにして。数字にならないところで喧嘩しないでよ」
笑って言ったが、部室の空気は戻らなかった。
怜吾は最後に、空の椅子を調べた。
座面の裏、脚の継ぎ目、背もたれ。小型マイクも発信機もない。茶色い布地を押すと、昨夜の映像と同じようにゆっくり沈み、時間をかけて戻った。
受信機は無音だった。
室内から怪しい信号は出ていない。
「人形は?」
ちとせが言った。
怜吾が顔を上げる。
「部屋じゃなくて、その中に入ってるんじゃない?」
長机の上で、人形は仰向けになっている。
折れた小指。亀裂の入った顔。伸びた黒髪。膨らんだ腹部。
「昨日より、お腹大きくない?」
イオが囁く。
着物の帯は、腹の中央だけ不自然に持ち上がっていた。内側から拳ほどのものが押しているように、布が丸く張っている。
怜吾は人形の周囲を受信機でなぞった。
反応はない。
「電波は出てない」
「中に録音機を入れたなら、電波いらないでしょ」
ちとせは人形から目を逸らさない。
怜吾が接触型マイクを取り出した。机や壁の内部音を拾うための、小さな円盤状の機器だった。
「切り開く前に音を拾う」
「また記録かよ」
「燈夜は触るな」
黒い手袋をはめ直し、人形の胸へマイクを当てる。
無音。
肩へ移す。
かすかな軋み。髪が着物を擦る音。
腹部へ近づけた。
解析画面の波形が、大きく跳ねた。
全員の呼吸が止まる。
人形の腹から、低い振動がマイクを通して伝わってきた。
ごり。
硬い何かが内側で擦れる。
その次に、誰かが息を吸った。
音は低く、部屋にいる五人の声ではないように聞こえた。
けれど最初の一音が出た瞬間、全員が怜吾を見た。
怜吾本人の声だった。
「そのカメラ、ずっとこっち向いてるよ」
抑揚も、息の混じり方も、語尾の低さも同じだった。
怜吾は口を閉じている。
声だけが、人形の腹の奥から流れた。
「俺じゃない」
怜吾がそう言う。
三秒後。
人形の腹から、同じ声が返った。
「俺じゃない」
美怜の背後で、電子音が鳴った。
短い起動音。
全員が振り返る。
部室の後方に置かれたカメラ。電源を落とし、記録媒体も抜いたはずの一台だった。
電池も外してある。
怜吾の手元にある机の上へ、黒い予備電池が並んでいた。個数は合っている。背後のカメラへ残っているものはない。
黒いレンズが、五人と人形を背後から捉えている。
その下で、消えていた録画ランプが赤く点灯した。
ランプの明滅は、三秒に一度だった。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押